プロレスのワキの甘さ

うちに救急箱があったか思い出せない・・・。
ラジオって結構同じ曲ばっかり流しませんか?
愛の流れる、ちうべいです。

さて、昨日はアニメに無用な毒を吐いたりして反省しています。
そうなんですよね、ああいう事を書くのは無粋の極み。いけませんね。

そこで、こちらからも少し色々な話を。

アニメのあらゆる「出来の悪さ」、「表現の甘さ」について書いたわけですが、同じようなユルさはアタシの大好きなプロレスにもあります。長年つきまとう「八百長論」がそれに代表されるところでしょう。

そこで、アタシの知ってる範囲内でいろいろと書きます。

元々、プロレスにはいい印象がありませんでした。
ち「おかしいやん、技くらいまくって・・・。みえみえのキックをよけられへんくらいフラフラやのに、試合終わったらスタコラサッサと足早に引き上げていくし」
とかね。
そんな思いを打ち砕いたのが深夜放送のプロレス中継。この辺は割愛しますが、そこでのプロレスラーの頑張りに感動してファンになっていきました。

しかし、アタシがいくら感動したからといって、世間、すなわち常識レベルのでの物の見方で考えても「胡散臭い」ことに代わりは無いプロレス。
それについて少し。

現在、プロレスは息も絶え絶え。90年代のように、ドーム興行連発でウハウハ儲かる!みたいな時代ではありません。それもこれもK-1、PRIDE等の格闘技興行に客を持っていかれてしまったからでしょう。
アタシがプロレスファンになったのが94年。K-1が誕生したのが93年で、PRIDEが97年。プロレスファンが離れていく様を目の当たりにしていたわけです。
これはどこからどのように始まった流れ、ムーブメントであったのか?
まずはその発端から。

時は80年代。新日本プロレスの生み出したスーパースター「タイガーマスク佐山聡は同団体を退団。
「シューティング」なる格闘技を創始し、その普及をすべくジムをオープン。プロの技術が総合格闘技として一般人に公開された初めての試みある。
ここに至った経緯としては、佐山のプロレスラー時代の格闘技戦に遡る。
プロレスのリングで行われても基本的には勝ち負けの決まった「プロレス」でしかない「異種格闘技戦」。しかし、まだ新日本プロレスの若手だった佐山はとある格闘技興行に出場し、キックルールでキックボクサーと闘う事に。ここで佐山はボコボコに殴られ蹴られ、KOこそ逃れたものの、大差の判定負け。セコンドについた先輩レスラーは元より、総帥アントニオ猪木にもねぎらいの言葉をかけられる中、一人だけ「なんだ負けたのか。たいしたことねぇな」と罵る者が。悔しさを隠せない佐山は道場、合宿所暮らしでありながら人の目を盗んでキックボクシングジムに通いはじめる。当時の新日本の道場では考えられないことである。「プロレスこそ最強」をとなえてやまない猪木をトップに頂く以上は、出稽古など笑止千万。許されるはずがなかったのだ。実際、それまでにもこっそりとボクシングジムに通ってはいたが、いよいよ目の色が変わった。

そんな折、佐山に出国命令が出る。当時の日本プロレス界はデビューしてしばらくすると海外武者修行に出されるのが慣例だったのだ。佐山はそのファイトスタイルの完成を前に、世界へと旅立つ。

帰国した佐山を待っていたのは、漫画のような話であった。実際、劇画「タイガーマスク」の主人公、タイガーマスクとのタイアップ企画での変身であり、しかも緊急で決められた案件。悪い事は続くもので、そのデビューの当日、プロモーターサイドはなんと肝心の「タイガーマスク」の手配が漏れるという致命的段取りの悪さ。仕方なく急場で用意されたマスクを見て佐山は「あまりのチープさに涙が出た」という。

タイガーマスクは原作を超えた」

タイガーマスクの原作者梶原一騎の言葉である。
平成の世を生きる読者諸氏はこう言われてもピンと来ないかもしれない。
それほどに佐山タイガーの動きは素晴らしく、ファイトスタイルはこれまでのプロレスと一線を画す画期的なものだったのだ。衝撃的デビューを飾ったタイガーは瞬く間にスターダムにのし上がる。力道山を別格として、A猪木G馬場に次ぐ存在にまで一気に上りつめ、会場は連日の超満員を記録。各種メディアも飛びついた。
もはや日常で表を歩くこともままならなくなった佐山だが、心には別の思いがあった。それはファイトスタイルへの不満である。リング上では華麗に宙を舞うタイガーマスクだが、中の人佐山が本当にやりたいのはもっと格闘技色の強い試合なのだ。事実、タイガーマスクも後期はタイツからパンタロンに換え、キックを多用している。
また、プロレスの世界独特の「人間関係の面倒臭さ」からなんと人気絶頂にして佐山は退団、半ば引退に近い形でマスクを脱ぐ。

ここでやっと冒頭の「シューティング」創始創設にたどり着く。ちなみに、この記念すべきジム開きに一般会員として参加し、研鑽を積む若きアマチュア格闘家達の中には俳優長谷川初範もいた。

時を同じくして、新日本プロレスは相次ぐ内紛により、二つの派閥が離脱。長州力率いるジャパンプロレスと、若きエース候補前田明(のちに前田日明)を擁するユニバーサル(のちにUWF)がそれぞれ旗揚げする。
佐山はその二つに加え、G馬場率いる全日本プロレスからもオファーを受けるが最も弱小のユニバーサルを選ぶ。そこで佐山は「スーパータイガー」としてリングに上がる。(商標の関係上タイガーマスクを名乗れなかった)
ここでついに佐山は長年鬱屈させていたファイトスタイルへの不満を爆発させる。

後楽園ホールにおける試合中、対戦相手の木戸修が佐山をロープへ振った時のこと。
従来のプロレスの試合であれば、ロープのバウンドを利用して戻ってきて技をくらう。定番であり、お約束であり、世間から八百長と揶揄される際の代表例とも言えた。
佐山はロープでバウンドこそしたものの、木戸の技の圏内に入る前に人差し指を「チッチッチッ」と横に振りながら立ち止まったのだ。日本におけるプロ格闘技誕生の瞬間である。
その佐山のアクションに会場は爆発した。佐山の「もうこういうのはやめようよ」というボディランゲージがプロレスファンの「八百長のファン」というコンプレックスを見事にすっ飛ばしたのだ。
例え、ロープに振らなくなったからといってそれがガチンコ、いわゆる真剣勝負とは限らないかもしれない。実際、93年にパンクラスが旗揚げするまで、「完全に真剣勝負」を前提としたプロレス団体は無かった。そこに至るまではここを起点に、文字通り切磋琢磨して「真剣勝負を見せるプロ」の世界を作り上げていくのだ。

話は長くなったが、今多くのプロレスファンは格闘技のファンとなっていっている。いや、ひと昔前ならプロレスファンになっていたであろう若者達が最初から格闘技ファンとなっていると言ってよいだろう。
これは時代の流れでもあり、必然でもあるのだ。プロレスは無くなりはしないだろうが、かつての隆盛を取り戻すのは難しいだろう。
結論として言うと、アニメにも同じような事が言えると思えるのだ。
AKIRAを起点として、アニメには一つの流れができた。多少なりとも市民権を得てはいるが、それでもやはり「アニメ」は日陰の娯楽。自己紹介で「アニメ大好きなんです!」言える空間は相当限定されるだろう。アタシは履歴書にも趣味・特技の欄に「格闘技」とハッキリ書くが、アニメ鑑賞とはなかなか書けないと思われる。
こればっかりは時間をかけて「お~、お~、アニメなんか観てるんかい?」という「ナメられている」視線を変えていかねばなるまい。現にアタシもごくごくたまにジブリを観る程度。そういう人は実際に多いだろう。
理屈抜きに「うお、このアニメすげー!」と視聴者の目を釘付けにし、ステータスを上げるには子供だましばかりでは無理であろうと思われる。すなわち、銀英伝最高。

・・・、無理があるなw