裁判をしました ⑨
それは裁判所から弁護士の先生を通じて、出廷日の候補を選ぶようにという連絡でした。これがコロナ真っただ中の真冬とあって、設定されたものが一旦はお流れに。時代ですね。仕切り直して春、それも四月上旬のいずれかを選ぶことになりました。
仕事柄、その時期は決算対応でなかなか穴を空けられなかったのですが、こちらの都合で先送りにする事が申し訳なく思えて、有給を取る事になりました。気が引けます。良くないことなんでしょうね。と、同時に職場からはなんとも残念な反応がありました。そもそも決算期間中でも有給取得を咎めることなどできなかったのですが、まだまだ日本の労働環境はそうなっていません。無論、私なりにできる限りの事をして業務の進行を妨げるようにはしていませんでしたが、世知辛いものです。
裁判所の指示する法廷に近付いたのですが、これはもう少し配慮があっても良いのでは。廊下で原告と被告が普通に顔を合わせるのです。ここでいざこざとかにならないのでしょうか・・・。数年ぶりに伯母とも顔を合わせます。思わず会釈した私はとことん甘い人間だと情けなく感じたものです。転じて、被告側の傍聴者の多い事。先生も驚いていました。「こういう裁判であんなにたくさんの傍聴人が来ることは珍しい」と。
事前に先生からレクチャーを受け、相手にする質問や、私にも確認のためにする質問等を伺います。その中で印象的だったのは「相手の弁護士は相当に挑発してくるでしょうけれども熱くならないでくださいね」というものでした。これは自信がありません。
裁判官も入廷していざ開廷。
この時の展開の細かい事はよく覚えていませんが、とにかく相手の弁護士は「何十年もほったらかしにしてた父親の財産に群がる卑しい長男」との心証を裁判官に持たせたかったようです。常套手段なのでしょうが、死んでもいない父の遺産相続争いをさせられているようで、非常に残念でした。
また、医者から認知症とされてグループホームに入ることになった父との会話が、まるで社会的に問題がなかったかのような流れには閉口しました。「病院まで行って、あなたの父親が口座解約に同意した」と。これが認められることの方が恐ろしいと思うのですが、裁判とはそんなものなのでしょう。
1人カッカする私をよそに、つつがなく閉廷となりました。ゾロゾロと出て行く傍聴人達。先生と残ってそれを見つめたのですが、なんとも言えないむなしい気持ちになりした。ここから、最後に裁判官の方と原告、被告と個別に別室で面談をします。あらかじめ先生から聞いていたのは「おそらく和解を勧められます。」とのことで、腹を括って入室しました。
「お父さんの今後について、どうする形が一番良いのか~」から始まった言葉。この一節で数年間溜まりに溜まった毒っ気、怒りのようなものが雲散霧消しました・・・。
私の怒りや虚無感に関係なく、そもそも私は父の後見人であり、父が人に迷惑をかけないようにすることが最優先なのです。そう思うとなんだか肩に入っていた力が抜けるようでした。
具体的な話が始まると、それはそれで何とも間の抜けた話で「百万くらいなら払ってあげてもいいと言っている。」「もうお金は残っていな」等の情けない伝言ゲームでした。先生と裁判官による専門家としての「落としどころ」トークを聞き、最後に「じゃあこれで」となったところで、待ったをかけました。
「あまりにも不実であり、手持ちの財産(土地や建物)を処分してでも払う姿勢を見せるのがスジではないか」と。素人の私の意見にも真摯に向き合って下さったことを今でも感謝しています。特に、その頃世間を賑わせた件をもって「四千数百万のお金が突然振り込まれて、それがすぐに返ってくるとか、そんなことがあり得ないことは分かってるんです」と語気を強めた所で先生も裁判官も「あぁ・・・」とうなだれたのは忘れられません。法は、民事訴訟は、かくも空虚なのかと改めて感じた瞬間です。
かくして、この日は終了。後日、先生から裁判所の和解案を提示されましたが、更なる減額を申し込んでくるという図々しい主張にノーを突き付け、判決を待つ事としました。
裁判をしました ⑧
必要な書類、資料がそろったのでいざ訴訟。ここからはいよいよ弁護士の先生が実際の手続をしてくださいます。それが受理され、事件として番号が付されて初めて裁判に。
ここからも決してとんとん拍子には進みません。数回の書面でのやり取りを致します。まず、向こうに訴状が届き、弁護士を立てる(立てなくてもいいのですが)、書面で反論、さらにこちらが反論といった具合です。
これが長い。回数も多い。そもそも資料が多いこともあって、相手は反論に必死。中には反論というよりは所謂「お気持ち」や筋違い、根拠のない誹謗中傷のようなものも。
返答をするのも馬鹿らしい事にも反応はせねばなりません。相手の主張に対しては基本的に3つのうちのいずれかを示すようにと先生からは伺いました。不知、否認、争う、と。不知はまさしく「知らない」ことであり、今回の事例で言えば私が父と会っていなかった頃のエピソードの数々で、どのような交流があったのかはこちらの知りえないことです。否認は文字通り否認、認められないことです。伯母は父とは婚姻を前提にしていたので、特別な関係である等。争うは文字通り具体的な争点になるもので、伯母の言う「私はあなたのお父さんから口座ごとお金をもらった」といった類です。
「ああ言えばこう言う」を地で行く展開が続き、書面だけでのやり取りがかなり長く続きました。2年近くでしょうか。この間はもちろん出廷等は無し。「裁判ってこういうもんなんやろか・・・」と、なかなか実感が湧きませんでした。
向こうが証人を増やそうとしたり、減らしたり。こちらも証人を立てようとしたり、やっぱりやめておいたり。色々な人ともわずかながら接点がある中で、父の妹、つまり叔母ともその事で少し会話しました。私にはっきりそう言った訳ではないですが、どうやら父の兄弟の間でもめごとのようになっていたことを少し感じました。「私はもう知らん」という短い言葉に集約されていて、申し訳なかったです。と、同時に「アイツ(被告となった伯母)アホやで。いっつもそう」との言葉で少し気が楽になりました。
裁判というものがなんだかよく分からなくなってきた頃、ようやく出廷の運びとなりました。
裁判をしました ⑦
訴訟に踏み切ってからも、やる事が多くてスピード感はありません。
必要な資料を揃えて揃えて打ち合わせして打ち合わせして・・・、と。
刑事ではなく、民事ですので落としどころは基本的にお金のみです。何か具体的な固定資産等の所有権を争っているわけでもありませでしたので、お金で要求します。この場合は2つ。「山のようにある借用書が裏付ける貸付金」と、「勝手に着服した父の預金」の返還要求です。
前者はまず、その日時と金額の算定。後者も当該口座の履歴をもとに算定。通帳が手元に無い場合はそれぞれの銀行に問い合わせる訳ですが、これは成年後見人でないと無理でした。その中でも、とある信用組合の窓口に行った時のことはよく記憶に残っています。預金担当の方が出てきて、「勝手に定期預金が解約された経緯」を説明してくださったのですが、相当バツが悪かったみたいです。そりゃそうです。「定期を預けたままボケたら、血のつながらない親族に勝手に解約されて、奪われるのを止められない金融機関」にお金を預けたい人などいないでしょうから。ありのままを全部実名で流布しただけでも、損害が出るであろう事案です。この点においては、別の都市銀行では対応が随分違いました。伯母が勝手に定期を解約しに行こうとしたら「配偶者やお子さんでないと無理」と断ったそうですから。そりゃそうやろ。
このようにいくつかの金融機関を巡って、手元に無い通帳の記録も開示していただき、被害額を算定致しました。貸付金と合わせて2千万円超。よくここまで出来るものだと却って感心するほど。父はマメにいろんな資料を残していたので、とてもスムーズであったのは間違いありません。また、お金を奪われたり貸したりする前に、どうも伯母がまとめてサラ金を返済していた記録があったのです。金額は全部で数百万円に上り、一時期に一気に返しているようです。伯母が複数のサラ金から借り入れた借用書等に返済したことが記載されており、ここも父からの借りた金で返した事をうかがわせますが、さすがに裏まではとれませんでした。父が認知症を患う随分前の事で、この頃からお金の無心に来ていたのではないでしょうか。
証拠不足で追及できない物が多かったですが、弁護士の先生曰く「初動が早いし、資料も豊富」との言葉をいただいたことで、わずかながらも勇気づけられました。
裁判をしました ⑥
成年後見人に立候補するところから始まります。必要な書類をそろえ、裁判所に行き、簡単ながら面談も行い、自らが必ずしも成年後見人になれるとは限らないという可能性がある事も聞かされました。また、制度上は途中での解約等はかなわず、一度始めたら成年被後見人が死ぬまで続く、と。
仕方ありません。
血縁関係者、この場合は唯一の兄弟である弟にも承諾を得る必要があり、直接話しました。もう一切合切全てを私一人で対応する、と。お金のトラブル等については具体的には伝えませんでした。知らなくて良いことです。
腹を括って申請。意外とすんなり受理され、成年被後見人に選ばれました。ただし、訴訟を前提にしている事も伝えていたからか、成年後見監督人が付く事に。こちらにも挨拶がてら面談に行かせていただきました。基本的には年に一度の提出物や、四半期に一度の中間報告といった簡単な内容でしたが、訴訟の話になるとなんとも雲行きが怪しくなりました。そもそも訴訟が成立するのか、何よりも勝訴したところでお金を取り返せるか、といった現実的な見通しは決して明るくなかったです。また、実際に訴訟を依頼する先生にも共通したのは刑事事件化の難しさです。なんと、ボケ老人をだまくらかして1千万以上のお金をせしめても、捕まらないかもしれないそうです。なんなら受理すらされないかも、と。昨今の警察や経験者が多忙さをアピールする事が多いように思いますが、こんな被害に遭ってる人間よりも優先せねばならない事とは一体何なのか?
大きく失望しましたし、これを書いている今現在も刑事告発をしていません。
とかく初めてのことだらけながら、私も所帯の小さい企業で経理総務をやってきた経験が活きます。報告活動はまさに個人の決算。必要な資料を作成したり取り寄せたりは、どれもこれも仕事で似たようなことを経験しています。こればっかりは自らのキャリアに感謝です。
いよいよ自分の立場が「長男」から「成年後見人を務める長男」になり、再び弁護士の先生に相談に。立場が変わって、改めて細かく相談。民事訴訟として進めさせていただくよう、お願いしました。ここであらかじめ念を押されたのは「お金が返ってくるかは別問題。それでも良いですか?」と。私の返事は「お金の問題ではなく、決着をつけたい想いなのです」と告げると「それなら!」と受けていただけることに。
感謝しかありません。
これから詳述していきますが、民事で勝訴してもお金なんて全然取り戻せないのです。
裁判をしました ⑤
グループホームに入所する前に、仮住まいのようにスタッフ常駐の施設に入所。これがバイクで片道10分とかからない好立地。たびたび顔を出しました。
世話をしてくださってる釣野氏達から、「ネタ」になる言行の報告を受けます。一度だけ暴力沙汰になりかけたとのことですが、足の悪い爺さんですので未遂に終わりました。とにかく人様に迷惑さえかけなければいい、と思っておりましたので、最初に報告を受けた時は生きた心地がしませんでした。
しかしながら、他の住人とは概ね良好な関係を築いているとか。なんならいろんな人達と談笑するらしく、随分となじんでいる様子。これはのちに入所するグループホームでも同様で、ブッチ切りの人格破綻者で友人も、同居する家族も居ない独居老人とは思えないほどでした。端的に申し上げて私の知ってる父ではなかったです。いろんなスタッフさんから聞くのは評判の良いお言葉ばかり。考えられない・・・。
そんな父にも面会が来ました。くだんの伯母とその娘、そして実の妹。私の叔母ですね。この方には私は幼少の頃に「大変に」お世話になり、一生頭の上がらない存在なのです。人間扱い、家族扱いしてもらえたとでも言うべきか。声が聞けただけでも嬉しかった。
ちょうどこの頃から訴訟を本格化させるため、父と伯母との面会を断ちました。施設側に依頼する形で、会わせないようにしたのです。実際に訴訟が始まると、ただの敵ですから。また、ボケ老人相手にどんな言質を取ったり、書類にサインなどさせられるか分かったものではありません。
そして人生初、弁護士に相談をさせていただくことに。
釣野氏の紹介によるもので、電話を差し上げると「一度ちゃんと聞かせて下さい」と。所謂「〇〇分〇〇円」というものですね。緊張します。ことの経緯を、手元に残る範囲内の資料を見せながら説明。返ってきた答えは「成年後見人になりなさい」というものでした。要するに、被害当事者である父が訴えねばならないが、認知症ではそれがかなわない。なので、誰か別の人間が成年後見人になり、代理で訴える必要があると。
思いもかけず話が大きくなりましたが、額が額だけに引き下がれません。また、伯母宛の借用書も大量にあり、分かっているだけで金額は1,000万円を優に超えます。私の知らない口座もあることなどから、一度電話で直接問い合わせました。私に渡していただいた銀行口座以外に、他の銀行口座等持っているのか。あるのなら父のもとに返してほしい。そもそもこれからどれから医療費等かかるのか分からない、と。それに対する返事が「いくら足りんのよ!?」「これは私があなたのお父さんからもらった」でした。
訴訟が決定した瞬間です。もっとうまい嘘でもついて泣き落としをかけられたらコロッと騙されたかもしれません。私もチョロい男ですので。ただ、傲慢にも居直られては出る所に出るしかなくなりました。
それでも、絶縁は前提としても最後通告として書面で催促させていただきました。父の財産を父のもとに戻してほしい、かなわない場合は成年後見人を立てて訴訟する、と。返事は「なんのことだか分からない。あなたのお父さんとまた会わせてほしい」というすっとぼけた内容。この姿勢は裁判が終わっても続くことになります。
裁判をしました ④
そこまでの期間の入院費用をすぐに精算し、老健施設の下見に行ったり、父の退院の準備が進んでいた頃、一つの懸念が浮上しました。病院のスタッフさんからです。事務の方なのですが、色々な情報をくださって、とても助かったのをよく覚えています。感謝。
「認知症の疑いがある。会話の内容がおかしい」
詳しく聞くと、病室と自宅の区別がついてない。窓の外の風景も把握できていない。枚挙にいとまがないようで、これは数回にわたる会話で指摘されていました。そこで主治医の先生のお願いしてテストしていただくことに。
結果はクロ。ハセガワ式という簡易測定で6点。30点満点中の6点ということで、ひとケタはなかなか出ない数字だとか。よく生きてこれたな、というくらいの。退院直前の再テストでは3点だったことも付記しておきます。
さすがに認知症となると老健施設を経ての帰宅、ということも叶いません。グループホーム行き決定です。病院の近く、もとい父の家の近くで探しても良かったのですが、もう世話のために大阪からとはいえ、わざわざ奈良に通うのも億劫ですので大阪の施設に入れることにしました。
友人の釣野氏が複数の介護施設を経営しており、そこのグループホームに入れようと。また、彼と一緒に経営している人たちも知っていますので、安心して任せられます。持つべきものは友といったことでしょうか。
一連の流れを聞いていた釣野氏の手引きもあって、あれよあれよと話はスムーズに進みました。助かります。この手続き等をしている期間に、父の自宅の整理も進み、色々な物が見つかりました。社会保険関連の書類や、生命保険、借用書・・・。どうやら父はいろんな人間にかなりのお金を貸していたようです。その中には伯母の名前も。世話になっている理由にはこういう事情も含まれていたのだろうか、と世知辛さを感じました。
別件等で伯母と会話をした時に、「あの家はどうするの?土地の権利書どこか知ってる?」等のあられもない質問にも「父の物ですので、なんとも・・・」と当たり前の返事をするとスッと引っ込みましたが、これも伏線だったのかもしれません。
なんなら「アンタら兄弟が現れへんかったら私が全部もらうつもりやった」とも。それもあって「入籍するならお早めにどうぞ。認知症が疑われてます。認知症と分かったらもう入籍とかは無理ですので」とアドバイスするも、「いやぁ、もうそういう約束したこともあなたのお父さんは忘れてるかも」との返事。これが決定的な詰めの甘さとなります。実際に、彼女が父と入籍する間もなく、認知症であることが判明します。
裁判をしました ③
病院の方々と話して、帰宅はかなわない前提で処理を進める事になりました。
こうなると話は早い。まずはゴミ屋敷の中身を処分です。昔、整理屋で働いていたこともあるので古巣に打診。現場を見てもらって、大体の段取りをつけました。家の中にまだ捨ててはいけない物もあるので、それらを確認してからです。かなり長期間にわたりそうなのは元職として理解できます。
続いて、そのゴミ掘りでターゲットになっていたのが金銭です。いざとなったらアタシがお金を出したりせんとアカンのでしょうが、まずは当人に負担させねばなりません。財布はボロボロの物が手元にありますが、やはり通帳などからまとまった支払いに対応するには預金が必要です。見つかる通帳は繰越済のものや、解約済みのもの。そして小銭。どうやって生活していたのやら。
父は守銭奴でしたので、それなりの金額が入った通帳がありそうなものですが見つからない。病院への支払いはすぐではないでしょうが、さすがに何か月か先には用意せねばなりません。入院中の生活用品等を用意して右往左往してる頃、また先生から連絡をいただきます。
「親戚の方から連絡があった。身の回りの世話をしていたそうだ。あなたの連絡先を伝えていいか」
新たな登場人物。名前を聞いても思い当たらない人ながら、私も会ったことのある伯父の妻。つまり伯母。どうやら私が顔を合わせていなかった、近年の父の様子を知っている模様。
さっそく電話して病院で会いました。
伯母の娘、つまり私の従姉の運転する車で現れた伯母。色々と話を聞くと、数カ月に一回は顔を出しに行っていた、金銭の管理もしており、通帳や印鑑を預かっている。伯父は他界していたのもあって、父と同居していた時期もあり、入籍の予定がある。介護等、身の回りの世話をする意思はない。入院費の支払い等は私が行い、それに必要な通帳は渡す。他にも色々と聞きましたが、私の居ない所でも父は父のままだったようです。情けないエピソードに事欠きません。
病院のスタッフや民生委員の先生も交えて父の処遇について話し合いを持つことに。
本人の希望する即時帰宅はかなわないこと。「怪我や病気の治療」以外での入院継続もかなわないこと。老健施設等、別の施設で一時的にでも体力を回復させる必要があること。最初はそれぞれに拒絶がありましたが、皆が説得することで渋々了承しました。諸々の手続や支払いも私がすることにも。長男の世話になる、というのは男親としては決して良い思いはしなかったことでしょうが。
この時、私が預かった通帳を見せると、黙って脇に挟んだ父と、それを見ながら「やめとけ!見せるな!」というジェスチャーをしていた伯母、終始ニヤニヤしていた従姉がとても記憶に残っています。